トンネル式「津波」シェルターを考える:どう避難民の殺到は解消するか?



東日本地震から1ヶ月経過しました。地震津波によって亡くなられた人びとのご冥福を祈ります。そして、被災された方々にお見舞い申し上げると共に、新しい町づくりに向けた復興を応援します。
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3月11日直後、津波から間一髪のがれられた生還者たちによって「避難車両の渋滞」「自宅への引き返し+居残り」についての証言を多く耳にした。

わずか5分か10分という短い間に、人びとは判断を迫られた。そして津波のスケールが、その場にいる人びとの予想を大きく越えていた。

ところによっては、堤防を突破した20m高の海水の塊が、避難エリアに指定されたコンクリート構造物を飲み込んだ。さらに、それからその引き波は、家屋とそこに暮らしていた人びとの結びつきを根こそぎにした。

報道は、遺体確認によって1万2787人の死者と、今も尚1万4991人の行方不明者がいることを伝える(4月9日)。

また15万4000人以上の被災者たちが現在も避難生活を余儀なくされていることが明らかになっている。
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岩手〜宮城県の海岸はリアス式海岸と呼ばれ、津波の被災地となった入江には漁港と海産物加工の仕事にたずさわる人びとが暮らしがあった。

さかのぼれば‥1896年6月15日の震災と津波、1960年5月22日のチリ地震による津波の記憶・教訓を、当時の人びとは「口伝」や「文書(monjo)」の形で記録していたという。それゆえ国内において同地の人びとは、子どもの時から高い防災意識を保持・共有していた。

しかし一方で、その暮らしを成り立たせるために、海辺に近い低海抜エリアに漁港中心の町を築くこともまた余儀なくされて来た。その切り札として、頑強な護岸堤防が生まれた。

‥人びとは災害へと備えながら、どう暮らしを営む上で海と向き合っていくか‥という方法をつねに模索してきた。それは、これからの復興のテーマでもあると考えられる。
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政府は、長期的な災害の復興対策(仮設住宅?)として、漁港とは離れた場所‥山間部の造成工事による「町の移転計画」を明らかにしている。それは国民の生命権を重視する上で、最良の考え方である。

しかし一方で、漁業を生業(nariwai)とする被災者たちに、新たな選択と自己責任を迫ることにもなる。‥いつ何時、災害がもたらされるか予想はむずかしい。たとえ安全な高台に住居と学校を構えられても、働いて食べてゆくのに海を放棄する‥という訳にはいかない。

どうすれば良いのだろう。‥災害の翌日から空中撮影で「津波被害」の画像がメディアを通じて伝えられた。

そこには、津波によって消え去った町を縫うようにして「小さな山(尾根と丘)」が点在していた。

言い換えれば‥それは、人工的に造成された場所が大きな被害を受けた一方で、‥反対にけずり取られはしたものの自然の地形は現存している‥と表現できる。

もしかすると、ここに「(エア・ロック効果=空気だまりで海水流入を防ぐ)登り坑道」を準備しておけば、近くの低い丘であっても、災害弱者(老人・母子・妊婦)が短時間で退避できるシェルターをいくつも確保できるのではないかと考えた。‥普段は除雪重機やダンプ、非常食の倉庫としても活用できる。

また海にほど近いなら、厚みあるコンクリート性のミニドーム*を埋設して「(助けが来るまでの)緊急退避ゾーン」に利用することも考えられる。