申☆⌒戦略をこえて{心をテーマにした学問(哲学~宗教~医学),ジャーナリズム‥途中゛

【自然世界から社会の秩序へ】

自然から学んだ「知識(=秩序?*)」を土台に、人びとは都市(より大きな社会)づくりにのりだしました。‥多湿な森が開拓され「効率化した農耕」がとり組まれたほか、海や陸の交易ルートをつたって「(銅や鉄など)金属加工&メッキ」技術や科学・数学の知識が、都市から都市へと運ばれました。ё{TV放送大学文化人類学から勉強.


●4大文明(エジプト,メソポタミア,インダス,黄河文明)の繁栄へ.≫およそ3600年まえ,シュメール地域で,ギルガメッシュ王の物語(~叙事詩)が記される.

より知識を世界へと求める一方で、人びとの関心は「(心の)内なる世界」にも向けられました。古代都市では(a)国家だけではなく、その権益のもとで(b)そこに生きる人びとが主体(小さな発信主―受信主)となって哲学、医学、宗教*があみだされていきました。≫*自然の秩序に代わって,どう文明社会の秩序をキープするか=テーマ化する.

●紀元前ごろ,旧約聖書(ユダヤ教)≫その神から世界統治の義務をまかされた義務がある‥という教義.

●西暦30年あと,新約聖書(キリスト教)≫その神を信じるものは等しく救済される‥という教義.

●西暦673年あと,コーラン(イスラム教)≫その神に忠誠を示す方法=祈りの意味+実践的な生活を伝える教義.

●仏教(宗派+時期は不明)≫誰にでもとりくめる実践=専門用語(サンスクリット語)の話者になるでなく,文字(経文)に書き写せる筆記能力でもなく,おだやかにその地域の言葉を声に表せること=教義?…コツ?λ~(∵~{ルーツは未確認゛~情報源=深夜ラジオ.

ё{仏教=宗派が広がりすぎて,もはや何が起源か不明ってことにするか.λ~(∵~{ブータン王国に何か手がかりあるか?

医学の方は、中世〜近代(20世紀)に近づくにつれて「薬学」や「治療方法」の知識がより深まり、技術革新がすすむ中で、より仕事の専門性*も複雑化していきます。しだいに、その関心は「脳はじめ神経機関―心(記憶と感情)のしくみ」にも寄せられるようになりました。

●1487年ごろ,レオナルドダビンチ「ウィトルウィルス人体図」をスケッチ.

★1419〜1500年初ごろ,琉球の島々で多国間交易が盛んに≫財を元に島々の紛争激化≫琉球王朝への統一~小さな島々に,支配構造(意識)が芽ばえた/日本本土(大和)では戦国時代の最中.

★1607年,(薩摩侵攻あと)琉球に外洋船製造の禁止を通達≫大和へ発注~購入する形式に.島内では,人口倍増+開墾政策が執(と)られ,貢品ノルマに応えようとした.+自主的に丸木舟づくりまで禁止する.λ~(∵~{あぃえな….

●1651年,ホッブズ「君主(リーダーシップ)論:リヴァイアサン」を発表.

●16~18世紀,ルネッサンス運動{科学―技術―芸術(国家メディア)の再統合運動はじまる≪政治腐敗の深刻化,宗教改革派の高まる声,海外交易の活発化も背景.

1832年,クラウゼヴィッツの「戦争論(国権下で,軍事ー経済―民意の戦略的結集≫総力戦の成功法)」が発表される.


1873年、当時17歳だったフロイトは生物学をとおして、脳性麻痺失語症はじめヒトの心―神経活動の作用について興味を抱くようになっていました。やがて当時の「催眠治療」や「訓練分析」を学びながら、言動表現―連想―夢といった手がかりから、心―健康(身体)のつながりを明かそうとしました。1886年、地元ウィーンに戻ったフロイト(30歳)は、当時までヒステリーと呼ばれていた「心的外傷」や「PTSD」の症状を改善させる治療法(自由連想法*)をあみだします。≫*除反応:心の中にある言葉にならない無意識を,自由な回想やイメージ化=意味づけして解放(言語化)すると,不思議と症状(苦悩)が消える.

★1868年,明治政府の発足≫1879年,琉球列島+海域が日本の領土に編入へ.

1886年,仏から米建国100周年記念に"自由の女神像"がおくられる.

1910年、56歳になったフロイトは仲間・弟子たちと「国際精神分析学会(初代会長=ユング,37歳)」を立ち上げました。まもなく彼らは、第一次大戦から帰還した多くの患者(兵士)と向き合うことにもなりました。その中で、それまで偏見に晒(さら)されつづけた「外傷性神経症(PDI)」の症状が見直され、1920年には戦闘神経症患者の改善治療についてフロイトは論文も発表していました。

その一方で1938年、ナチスの「アシュケナジー(ユダヤ教徒の末裔)追放」運動がおこって、なくなくフロイトは英国ロンドンに亡命。彼の弟子たちも医療現場(職場)をおわれた末に、その多くが強制収容所ガス室で命を落としました。1939年、フロイト自身も末期ガンからモルヒネ投与による安楽死の道をえらびました。のちに彼の意志は、娘アンナ・フロイト(1895~1982)*に引き継がれました。≫*児童心理学で自己防衛規制(心)のメカニズムを解き明かした.

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【印刷とジャーナリズム】

≫1455年,グーテンベルクが金属活版印刷で聖書の大量生産しはじめる.

●1776年,アダムスミス「国富論」出版≫1882年に日本語訳で紹介される.

●1851年,NYタイムズ創刊.1877年,ワシントンポスト創刊.1889年,ウォールストリートジャーナル創刊.

≫1866年,大西洋を「(電信)海底ケーブル」が横断する.

●1867年,マルクス資本論」を発表≫1919年,日本語訳で紹介される.


19世紀から20世紀にかけて、先進諸国はそれぞれ「都市を中心とする国家戦略」を拡大競争させながら、国内に大がかりな「情報管理(軍備,経済,メディア=民意誘導)」のしくみを抱えるようになっていました。‥この当時、その世界情勢や経済の動向を伝えることがジャーナリズム*の大きな仕事でした。≫*journalism=新聞メディアの登場によって,おおやけに情報が広まり―人びとが関心を寄せやすくなった.

●1917年,ピューリッツァー賞(報道活動に与えられる賞)が創設.

やがて世界は、各国それぞれの世界戦略(?")に則(のっと)って二つの世界戦争に突入しました。(1)高性能化した兵器力と、(2)国家総力(市民総動員)戦を背景にして被害は拡大―深刻化。必然として伝え方にも、それまでの「統制(想定)に従うプロパガンダ報道*」とは別に、記者の身体をとおして「a)絶句する状況(現実の戦争)」や原因である(b)貧困と(c)格差からの差別意識の問題などを、なんとか広く伝えようとする報道姿勢が生まれていました。

≫*一方でメディア戦略として,軍部隊に同行取材しながら実況をスリル(劇化)変換したり,正義(味方)―悪(敵)という対立構図づくりをする演出などもあみだされた.


●1948年,国連「世界人権宣言」を発信.

★1949年,長崎の爆心地公園に「原爆資料館」が完成.

●1950年,丸木位里&俊夫妻が「原爆の図(日本画)*」と「(絵本)ピカドン」を発表≫*日本全国で巡回展示活動をはじめる.

★1954年,広島平和祈念公園が完成.

しだいに、ジャーナリズム(公的な記録≫報道するしくみ=仕事)は、ラジオやTVといった「瞬時の情報配信」を得意とするメディアにも、その活動の場を広げました。マイク(音声)やカメラ(実況映像)をとおして伝えられるニュース*は、そのわかりやすさから、広く人びとの関心・意識を掘りおこす働きもしました。‥公害被害、災害、紛争、テロリズム*、暴力事件など「伝えられる断片―余白」から、自らが暮らしている社会―世界のつながりを知って、多くの人びとが大まかなイメージを持てるようになったのは、つい最近の出来事です。≫*恐怖による統制をねらった戦略的な暴力.

一方で、その活動資金にかかる「多額のコスト(費用=財源)」は国家であったり、営利企業がスポンサー(支援組織)として負担してきた歴史的な背景もあるため、しばしば、これらの権益を害するようなニュースの取材―報道がはばまれたり、ゆがめられたりすることもあるようです。

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【メディア技術の発展,&リテラシー

⌒η~(∵~{もぅ一息゛

ё{年明けになるかも知れません.

●1961年,軍政権下ポルトガルの市民弾圧をきっかけに,英国で「アムネスティ・インターナショナル」が発足―活動へ≫国連との協議資格をもつNGO(非政府組織)に位置づけされる.

☆1962年,真珠湾攻撃にまつわる(米国)国定記念碑に「戦艦アリゾナ」が指定される.

★1965年,米軍の北ベトナム爆撃(報道)あと小田実*ら「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」を発足≫抗議行動を展開する.≫*空襲体験者.


●1968〜1970年,ナイジェリア内戦に「(赤十字の医療支援として)国境なき医師団」が参加する.

●1969年,米国の地下核実験(1970)に反対する「グリンピース(‥波を立てるな委員会)」がカナダ・バンクーバーにて発足する.

★1975年,沖縄県立平和祈念資料館が完成.≫ひめゆり学徒資料観の完成.≫学童疎開船・対馬丸記念館の完成.