家族にあてた手紙や,平時に振りかえる目的(力の鼓舞)で描写される性質がある.本文p.286~291(省略)

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3)言語からの切断

‥おそらくは古来から、そのような「表現(表面的なことば使い)」によって‥暴力あとの惨状について人びとは、共感し(させ)たり、罰したりと‥恐怖からの感情を「憎悪」へと変換させていました。

ところが、近代の核爆弾の使用(1945年8月6日,9日)にともなって、人びとは「伝達不可能」な状況とも向かい合わざるえなくなりました。‥はじめそれは、p.284~「(擬人化された)センセーショナルな新兵器」が、「広島の軍事基地」を「完全に破壊し尽くした」という勝利の一報として広められていました。

次に‥やがて被爆の証言集が、GHQ検閲の封印を解く形で‥ようやく1965年に出版され出します。そこには、たまたま爆心地で即死をまぬがれた人びとが目にした世界を紹介しました(p.293省略)。

もはや、コトバでは追いつかない現実を(どう)伝えられるものか‥その模索から、広島・長崎・南京・沖縄における「目撃者のスケッチ」「(被災した)生活道具」「犠牲者リスト」の展示につながっていると指摘します。
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4)暴力の記憶~捕虜の経験

省略/資料≫小説・アリスのような町(英),私は貝になりたい(日),ビルマの竪琴(日),種を蒔く人(南ア=戦メリの原作)‥のように、限定して「平穏で人間性を保てた日常」と「非日常(特殊な戦前)」を分けへだててイメージ化します。
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5)暴力の忘却と再発見

戦争を「(数字の記憶)知識」として記憶する=知っていることにかたよると、一方で「(生還者の五感を通した)感覚」として記憶とは距離をつくります。その当時は「特殊な時代‥」で共感しようがない‥という単純化によって、記憶の風化はすすめます。

‥東アジアでの「戦争の記憶」が分裂していった背景について、テッサ氏はそう説明します。

1950年代には、ハリウッド大作「北京の55日*」が発表され、米英日(冷戦時の連合軍)の正義が強調します。一方で1970年代頃から「アジア太平洋戦争」の語り直しがはじまりました。1980年代あと通信技術の進歩は、だんだん国際的なコミュニケーションの壁を取り払うようになります。

ベトナム戦争を背景に「(Eスカリーの)苦痛のもと‥」や「(マリタ・スターケンの)もつれた記憶」が発表されたのが、この頃です。

他方で「フィクション・ドキュメント(歴史にもとづく架空劇)」が、この頃から精力的に制作されだします。1980年代は、こぞって「太陽の帝国」「ラストエンペラー」「紅いコーリャン」など‥侵略時代を描こうとしました。
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?.仮想の暴力~永遠の証言
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=~{ひとすじ縄にはいかね…。

λ~(∵~{又,あとで更新。